昔から「男は度胸、女は愛嬌」と言われているように愛嬌は重要な要素だと考えられている。
今の時代、男だから度胸だけ、女だから愛嬌だけではなく、おししいとこどりできれば良いんじゃないかとずっと思っていた。
僕は愛嬌がないことを自覚している。
だからこそ、愛嬌がある人が良く見えたこともあったし、どうすれば愛嬌がある人になれるのかと考えていた。
愛嬌について考え始めたのは、10年以上前になる。(もちろん四六時中考えているわけではない)
短大時代の男友達が、愛嬌がある人だと思っていたし、自分はそのような人にはなれないなと思っていた。
その頃の認識では、「愛嬌は自分の弱い部分を他人にさらけ出すことができること」なんじゃないかと考えていた。
最近その認識がアップデートされてきて、解像度が少し上がったようなので書いていきたいと思う。
短大時代の友達のお話
僕が愛嬌があるなと感じていた友達は、どんな行動に対しても人に意見を聞き、その通りに行動していた。
僕に気になる人への返信メールの内容を逐一相談し、自分がメールを送っているんじゃないかと思う程聞かれていた。
そんな僕はめんどくさいなと思いながらも、頼られている自分というのを感じられ、そこまで悪い気はしていなかった。
その友達は、僕だけでなくどんな人にも相談し、自分の行動を決めていた。
対して僕は、誰にも相談せずに自分の行動を決めて生きていた。
友達は自分に比べて友達も多く、誰とも仲良く過ごしていた印象があり、対して僕は、ある程度心が開けた人には自分を出していくが、心を開くまでにはある程度の日数を要した。
そこで考えたのが、「誰かに相談をされる」ということは、その人を信用されているからできる行動で、頼られているという優越感を得ることができる。
人間誰しも頼られると気持ちよく、頼られているという仲間意識が芽生える。
だから、いろんな人と仲良くできるんじゃないかと思った。
僕は誰かを頼るということは弱みをさらけ出すことであり、僕にとってその行動はマイナスな行動であるからできないと考えていた。
この考え方は、誰かよりも上に立ちたいという考えから出てくる考え方で、誰かと比較した世界に生きていたからそんな考えだったんだろうと今では思う。
愛嬌ってなんなんだろう
仕事をしていて愛嬌がある人とない人は何が違うんだろう。
愛嬌がある人の仕事でミスがあったとしても、なんだか許せてしまう。
同じミスを愛嬌がない人が起こしてしまうとなんだか許せない。
この違いはなんなんだろうとずっと思っていた。
愛嬌って何なんだろうと常々思っていた。
生きていく上で、ミスがミスじゃなくなる愛嬌がある人の方が間違いなく徳をするだろう。
弱い自分を認めること
最近は比較した世界から脱したいと考えていて、その肝は弱い自分を認めることが重要だと思った。
誰かを頼るということは、自分はわからない(弱い)から誰かを頼るという考えから起こす行動であり、弱い自分を認めた上で行動を起こしている。
対して、弱い自分を認めないから自分は正しいと考え、誰にも相談せずに行動を決めているんじゃないだろうか。
自分の行動を誰かに決めてもらい過ぎることは愚かだと思うが、自分で全てを決めすぎるのも同様に愚かな行動じゃないかと思う。
弱いからこそ誰かに寛容になれる
誰かよりも上に立ちたいと考えることは、誰かよりも有用な完璧な人間を目指すことだと思う。
完璧を目指す以上、ミスを認められなくなり、他人にも強く当たってしまう。
だが、人間はミスはするものだし、ミスをしない人なんていない。
未来の自分の布石としても、ミスをした自分(弱い自分)を想像し、誰かのミスを認めてあげるべきだと思う。
ただ、これだけじゃないよなぁ
弱みを見せられる自分から弱い自分を認められることという解像度は少し上がったが、これだけじゃないよなとも感じている。
例えば、いつもニコニコしていたり、ほんわかした雰囲気を醸し出していたりという要素も大きく影響している。
ニコニコしていても、この人には裏があるなって感じる人もいる。
ここの言語化にはまだ時間がかかりそうだ。
まとめ
弱い自分を認めることができればかなり生きやすくなりそうだ。
自分を大きく見せて生きる必要もなくなるし、周りの人に優しく生きることができそうだ。
弱い自分を認め、その上で卑屈になるのではなく、弱いからこそどう行動するかが重要だと思う。
他人に謙虚に行動できるし、他人に寛容になれる。
寛容に対応された人が、自分の行動を改めるかどうかはその人次第で、自分には関係がない部分だ
切り分けることも必要だ。
その考えが根本にあると社会はもう少し良くなる気がする。